ハローと言われて思うこと

道を歩いていたら、
向こうからくる自転車に乗ったティーンエイジャーに、
Hello!と声をかけられた。
一瞬のことだったから
慌ててHi!と返したときはもう私の後ろを走っていたけど
ちゃんと聞こえたかな????

 

北米人の挨拶が自然で好き。
あなたがそこにいるから、声をかける、そんなかんじ。

人の挨拶って、
あなた、ここにいるね、
知ってるよ、
というお互いの存在の確認みたいなもの
だとおもう。

そして北米人はそれをすごく自然にこなす。

レモン、ありますね、でも書いたけれど、(パセリ、センキューでもいいんだが)

あなたが存在しているということをわたしは認識しているよ、
と表すことは
人間のコミュニケーションの基本の基本なのかも。
それがないと、人間は少なからず壊れていく気がする。

 

中学生のあるときから、
自分が人からみえていないんじゃないかという感覚に
陥ることがあった。

道を歩いていても、電車の中でも、学校でも。
無視される、というわけじゃない、
でも他人に私が見えていない。
目が合ってもその人には私が映っていない。
気分が悪くて道端でしゃがんでいても、、
変なおじさんやおばさんにからまれていても、
(変な人には私が見えている?何ひきよせの法則?)
お弁当を一緒にたべる人がいなくても、
他の人は
まるでそんな存在がないかのように、
素通り。
教師や牧師はこちらを見るが、
私のことが見えているのか見ていないか
よくわかないような視線をむけるだけ。

わたしにはあなたたちが見えているのにな。
無視、というわけではないらしい。
なぜならば、わたしがしゃべりかけるとそれなりに返事が返ってくるのだから。
わたしから言葉を発したときにだけ、
私の姿がぱっと異空間からでてくるのかな。

 

とにかく現実とされているところでは
そんな感じで
私にはとてもリアリティーがなく、
夢の方がよっぽど現実らしく、
そっちが現実であってほしいと願ったりした。

 

私はいつも眠かった。

というか、眠りたかった。

 

そのうち、どうせ見えていないのなら、
私も声を発する必要もないのじゃないかと思えてきて
ほとんど口を開かないようになった。

そうなるともう、
たまに誰かが話しかけてくれても
私にはあまり聞こえていなかったんじゃないかと思う。
今思うと、学校の優しい子がたまに声をかけてくれたのに。
私にも皆がみえなくなっていったのかも。

 

病的ですかね?
いや、人ってそうなると思いますよ。
他人を通して自分をみるじゃないですか、
その他人に自分が見えないとなると、
自分の存在がぐらぐらしてきて、
あれ、いるんだっけ?私?みたいなね。

 

カナダで
誰かが私ににこっと笑いかけてくれるたびに
ハローと声をかけられるたびに

私はいるなぁ、

と思う。

もうこちらにきて10年以上。
ハロー、いい天気ですね、
という言葉が自然とでるようになった。

 

けっこういい国だとおもいません?

 

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